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細田守は家族と血脈を愚直に描く「骨太の物語作家」だ。

◆細田守の「聖母」。


 細田守という映画監督のことを考えています。

 

 いままでどうにも捉えどころがないような作家だと思っていたのですが、『未来のミライ』を見たことで、ちょっとわかったように思います。

 

 この人は、たぶん、本来、シンプルでプリミティヴな物語を作りたい人なのですね。

 

 でも、時代が時代だから、なかなかそれができない。それで、その歪みが作品に刻印されることになる。そういうことなのかな、と。

 

 もう少しわかりやすく説明しましょう。

 

 細田監督のいまのところ最もかれらしい作品にして、いちばん賛否両論を呼んだのは『おおかみこどもの雨と雪』だと思います。

 

 これはまあ、ぼくの目から見ても批判が生じるのはよくわかるような映画なんですよね。

 

 何といっても、女性の、あるいは母親の描き方にまったくリアリティがない。現代の映画としてはいかにも受け入れがたい。

 

 でも、同時に、この「リアリティのない女性像」、「聖母」を描けるところが細田さんの才能でもあると思うのですよ。

◆フェミニズムの時代。


 もちろん、フェミニズム的な思想が浸透したいまでは、「聖母」などという描写はとうていありえないものには違いない。

 

 そういうものを描くと、即座に「母性を神聖化するな」とか、「現実の女性を直視するべきだ」とかいう批判が飛んでくるわけです。

 

 しかも、それはそれでまったくもっともな話なのですよね。

 

 ただ、物語作品というものは必ずしもそういう「賢い理屈」で成り立っていない。「賢い理屈」だけではどうしても面白い物語はできあがらない。

 

 面白い物語を生み出すためには、「これが、これこそが面白いのだ!」という論理以前の確信のようなものが絶対的に必要なのではないかと思うのです。

 

 たとえ、それがポリティカル・コレクトネス的に見て「正しくない」確信であるとしても。

 

 たしかに、「聖母」とか「グレート・マザー」みたいな描写は現代ではちょっとできない。それが幻想であり、しばしば女性に対する抑圧につながることをだれもが知っている。

 

 しかし、それでも、なお、そういう幻想は強く人の心に訴えかけるものを秘めていることもたしかなのですよ。

 

 それが、その幻想が「シンプル」で「プリミティヴ」であるということの意味。

 

 シンプルなものは「強い」。「正しい」とか「間違えている」とかいうはるか以前のところで、人の精神を強く、強く揺らすのです。

 

 まあ、頭がよくて批評家になるような人は、だいたいそういうシンプルな物語を好みません。批評家はたいてい知的で複雑な物語を好む。

 

 そういう物語が一般的な意味で「面白い」かというと、必ずしもそうではないと思うのですが、かれらにはそれが「面白い」のですね。

 

 あるいは、かれらはそもそも「面白さ」にたいした価値を見いだしていないのかもしれない。

 

 たぶん、かれらにとっていちばん大切なものは何らかの「思想」であり「正しい理屈」あって、「面白さ」なんて二の次、三の次なのではないかと。

 

 ただ、ぼくはやっぱり「面白い物語」が好きなので、そういう人とは相いれないところがあります。

 

 「思想」はどうしようもなく物語を退屈にしてしまうところがある。

◆「賢い」ことがすべてではない。


 いや、一定以上「賢い」物語は、それはそれでたしかに面白いのですよ。

 

 やはりそこにインテリジェントにソフィスティケートされたある種の「面白さ」があることは間違いない。

 

 でも、それはぼくがここでいう「物語の面白さ」、人間の根源的な心理に訴える魅力とは別種のものでしょう。

 

 で、ぼくはやはり「物語の面白さ」を至上の価値としたいと思うのですね。

 

 何かしらの「思想」がいちばん大切だと考える人たちにとっては、唾棄すべき輩ということになるかもしれませんが。

 

 どういえば良いかな、立派な「思想」を掲げる人たちほど、それがこの世でいちばん大切なものであることを疑わないものなんですよ。

 

 だから、「物語の面白さ」なんてものを至上視する人間のことは軽蔑するんです。

 

 まあ、インテリですよね。たぶん、かれらにとっては「現実」がいちばん大切で、物語のことは「現実の反映」として受け取っていると思うのだけれど、ぼくはインテリじゃないからよくわからない。

 

 ぼくはどちらかといえばバカだし、それで良いと思っている。ただ、バカになりきれないところがあることもほんとうなんですけれどね。

 

 もしぼくがほんとうにバカを貫き通せていたら、たぶん、小説を書けたことでしょう。

 

 中途半端に「賢い」から創作ができないのだと思う。つまり、自分の信じる「面白さ」に殉じる愚直さが足りないということ。

◆物語の「骨太さ」に惹かれて。


 話を戻しましょう。ぼくがいうところの「シンプルでプリミティヴ」な魅力を秘めた作品を語るために、ペトロニウスさんなどは「骨太の物語」という言葉を使います。

 

 ぼくはその「骨太の物語」が好きです。

 

 あるアイディアを極限まで突き詰めたジャンルフィクションや想像力豊かな文学作品も好きだけれど、どちらかというならぼくは「そちら側」の人間ではない、「骨太の物語」を愛してやまない人間だと思う。

 

 そういう「骨太の物語」を作ることは一見すると簡単そうに思えます。

 

 何といっても単純明快、ごくごく幼稚な構造しか持っていないように見えるからです。

 

 しかし、実はそうではない、中途半端に賢い人はこういう「骨太さ」に殉じることができないものなんですよ。

 

 いい換えるなら、「骨太の物語」はバカにしか作れない。心のどこかが愚直な人間にしか生み出せないといえる。

 

 そう、賢い人はたとえば勧善懲悪のようなシンプルな定型に疑問を感じるのですね。そして、物語を知的に、複雑にしてゆく。

 

 その結果、どうなるかというと、あるいは非常に洗練された高度な作品ができあがるかもしれません。

 

 でも、そういう作品が面白いのかというと、それはやはり別問題なんですよね。

 

 「骨太」、つまり「シンプルでプリミティヴであること」は意外にもそう生易しいことではないのだということ。

 

 そういう物語を作るためには、批評家的な知性は必要ないかもしれませんが、やはり別種の才能が必要となる。

◆「こっちにおいで」。


 で、ぼくが見るところ、細田さんはその才能を持っていると思うのです。ちょうど初期の宮崎駿が持っていたように。

 

 しかし、同時に現代を生きる作家である細田守はやはり、そのシンプルさを貫き通せていないようにも思います。

 

 それが、かれの作品を微妙に居心地の悪いものに仕上げているのではないか。ぼくはそういうふうに考えます。

 

 その意味では、やはり『未来のミライ』は素晴らしかったですね。ここには、「人の悪意」や「深遠な複雑さ」はまったく描かれていません。すべてがシンプル。

 

 この感性を保ったまま、よりエンターテインメントなプロットを使ったらあるいは大ヒット作が生まれるのではないかと思うくらいです。

 

 そう、骨太な物語は大衆に届く。大衆は決して知的なだけの作品を望んではいないものなのです。

 

 知的であること、複雑であることは、もちろん一面では素晴らしい。けれど、それがすべてではありません。

 

 たとえば、高畑勲の『かぐや姫の物語』は素晴らしく賢かったし、知的な人たちにはウケただろうけれど、そこには「骨太な面白さ」はない。

 

 で、細田さんという人はもっとシンプルな物語を描ける人だと思うのですが――うーん、どこかで「理性の重力」を振り切ったりしないものかなあ。

 

 ぼくが何をいっているのかわかりますかね? 「知性」や「理性」、「思想」、「ポリティカル・コレクトネス」といったものは、「骨太な面白さ」とは異質な観念だということです。

 

 ぼくはあくまで「骨太な面白さ」を愛してやまない人間なので、物語に「思想」をもちこむことを嫌います。

 

 そこが、「思想」こそが最上の価値だと信じる人たちとどうしても相いれないところです。

 

 細田さんにはぜひ、「こちら側」に来てもらいたいところですが――さて、どうなるかな。次回作を見てから、評価を考えましょう。まだまだ先は長い。

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 この記事を書いた人:海燕(かいえん)

 

 プロライター。7月30日生まれ。2001年1月1日からウェブサイトをオープン。その後身のブログは1000万PVを記録。その後、ニコニコ動画にて有料ブログ「弱いなら弱いままで。」を開始、数百人の会員を集める。『シン・エヴァンゲリオン劇場版』を見るまでは死ねないと思っている、よくいるアラフォー男子。


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