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幸せとは無垢な幼心のままにあること。

◆健康な人間関係は幸福のいしずえ。


 読書するとき、一冊に集中し切れずにいろいろな本を併読するのはぼくの悪い癖で、いまも二冊の本を並行して読んでいます。

 

 岸見一郎『愛とためらいの哲学』と、代々木忠の『生きる哲学としてのセックス』。

 

 二冊ともタイトルに「哲学」と入っているけれど、どちらも決して難解な内容ではありません。

 

 そして、一方は恋愛のことを書いた本で、もう一方は性行為について書かれた本なのですが、内容に何か共通したものを感じます。

 

 ぼくの理解では、二冊とも、「幸福で健康な人間関係」について書いてあるのです。

 

 幸福は、昔から哲学の重要なテーマでした。

 

 まあ、幸福や満足など大して価値があるものではないという見方もできるとは思いますが、やはりどうせなら不幸であるよりは幸せであるほうが良いでしょう。

 

 かのJ・S・ミルの言葉に「満足した豚であるより、不満足なソクラテスであるほうがよい」というものがありますが(実はこれは正確な表現ではないらしい。正確なところは各自、Googleってください)、ようは満足したソクラテスであるであることが最善であるわけで、何も人間は不満足でなければいけないというものではないと思うのです。

 

 どうせなら、満ち足りて、幸福であるほうが良いに決まっている。

 

 そして、幸福とは「人間関係」に大きく左右されるものであることも論を俟たないでしょう。

 

 つまりはいかに人と人とのコミュニケーションを健康に保つかということが人生の幸せと直結しているわけです。

◆必要なものは努力か、才能か。


 人は聖書の語る「隣人愛」に満ちた、健康であかるい人間関係を築くこともできれば、暗く、陰鬱で、猜疑と不信にあふれた関係を生み出すこともできる。

 

 そうだとすれば、いったいどこでその差は生まれてくるのでしょうか。

 

 即ち、なぜ、ある人は豊かに満たされた関係を築き、またある人は不幸な、嘆きと悲しみに彩られた関係をしか生めないのか。

 

 人とまともなコミュニケーションを取る能力は、「才能」がすべてなのでしょうか。それとも、「努力」がものをいうのでしょうか。

 

 実は、ぼくはそのどちらでもないと思うのですね。

 

 つまりは、「考え方しだい」なのではないかと。

 

 ひっきょう、いかに思い込みのループ(ペトロニウスさんがいうところのナルシシズム)を避け、自分自身を世界に対してオープンにするかということが大切なのであって、才能もいらなければ、努力も必要ないと考えます。

 

 もちろん、口でいうほど簡単なことではないかもしれません。

 

 人は、生きていくなかでたくさんの「傷」を負い、「苦しみ」を味わい、もともとは素直で健やかな心を少しずつねじれさせていくもの。

 

 子供のような無邪気さを保ったまま大人になれる人はそうはいません。

 

 とはいえ、そういう無垢で無邪気な心をもった人こそが幸せな人であることもまたたしかな事実であるでしょう。

 

 どんなに強大な権力を手に入れても、ヒトラーやスターリンが幸せだったとは思えません。

 

 「疑い」や「支配」で陰鬱に飾り立てられたかれらの人生より、市井の平凡な男女の人生のほうが、はるかに幸福なのではないでしょうか。

◆「幼心のしあわせ」をそのままに。


 つまりは、幸せであるために大切なことは、いかに子供のときのままの心をそのままに保つかということにかかっています。

 

 何気ないことに喜び、ささやかなことを楽しむ。

 

 そういうイノセントな想いをそのままにもっていれば、毎日は楽しくなってくるに違いありません。

 

 それにもかかわらず、「財力」や「権力」、「支配」、「独善」といったことに惹きつけられると、人はたやすくその「幼心の幸福」を喪ってしまいます。

 

 たとえ自分では幸せなつもりであるとしても、ぼくの考えでは、それはほんとうに満たされた人生とはいえない。

 

 それこそ岸見一郎がいうように、ささやかな幸せだけがほんとうに幸せなのです。

 

 そして、また、代々木忠が語るように、存在のすべてを「明け渡す」スピリチュアルなコミュニケーションこそが人を救います。

 

 つまりは、「閉じた」存在を「開く」こと。自分のたましいを解放/開放すること。

 

 どうしても抽象的ないい方になってしまいますが、これがすべての人間関係の根幹だと思います。

 

 「閉じた」心は世界をダイレクトに感じ取ることができない。

◆心の錆びを取り除こう。


 しかし、人間の心のとびらは放っておくと錆びついて閉じていくものなのですね。

 

 だから、意図して「心の錆びとり」をする必要がある。

 

 その具体的な方法は、岸見一郎と代々木忠でまったく違っていますが、ぼくから見ると、ふたりとも同じことを目的にしているように思えます。

 

 「怖れ」や「不安」、「いら立ち」や「恨み」、「妬み」、「憎しみ」、「傲慢」といったネガティヴな感情から自分を解き放ち、「ただの自分」として世界と正対すること。

 

 それができれば、もう怖いものはないでしょう。

 

 他者に対して平然と自分をオープンにできる人、傷つくことも、裏切られることも恐れない人が最も強い人です。

 

 「恐怖」は自分の心の内側からやって来る。それを乗り越えたとき、初めて「ほんとうの幸福」への道が拓くに違いありません。

 

 それは、きっと素晴らしいものだろうと、ぼくは思うのです。

 

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸(さいわい)のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」

 

「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。

 

「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。

 

宮沢賢治『銀河鉄道の夜』

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 この記事を書いた人:海燕(かいえん)

 

 プロライター。7月30日生まれ。2001年1月1日からウェブサイトをオープン。その後身のブログは1000万PVを記録。その後、ニコニコ動画にて有料ブログ「弱いなら弱いままで。」を開始、数百人の会員を集める。『シン・エヴァンゲリオン劇場版』を見るまでは死ねないと思っている、よくいるアラフォー男子。


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